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2015年03月20日

民主主義とテロ(後編)

『民主主義とテロ(前編)』 の続き

どうもSHIBAです。

テロ集団として注目されている「イスラム国」

彼らの理念はイスラム法によって統治されるイスラム国家の樹立。

この理念は何も今に始まったことではなく、
古くは戦後すぐにエジプトで誕生したムスリム同胞団にまで遡ります。

民主主義というより西洋的な世俗主義に抵抗した組織です。

「宗教vs世俗」といったところでしょうか。

かつては西洋における植民地支配が世界を覆っていましたから、
戦後は各地で独立運動が盛んになりました。

「○○民族解放戦線」といった軍事組織が世界各地で誕生します。

やがて精神科医ファノンの著書『地に呪われたる者』で説いた

「暴力は植民地の住民を解放し尊厳を回復する手段である」

という考えが反体制組織の過激派(テロリスト)を形成していくことになったそうです。


ところで「テロ」と「ゲリラ」の違いって何か考えたことありますでしょうか。

ゲリラといえばキューバ革命時のチェ・ゲバラによる戦法で有名ですよね。

調べてみるとゲリラとはスペイン語で「小さな戦争」という意味になるそうです。

戦闘における戦術の名前で、正面から戦闘を行うのではなく、奇襲戦やかく乱戦法などの遊撃戦を展開すること。
主に自分より規模の大きい部隊に対して行う戦術ですね。

これに対し、テロとは目的を達成するために行われる殺戮や破壊行為で警告や脅迫を迫ること。

共通点があるとすれば、ゲリラもテロもどちらも政治目的による行為だということ。

だからね、時々巷で起きる無差別殺人事件があるとよくテロ行為だと報道されることがありますが、政治的なメッセージ性が無いものはテロではないんですね。単なる犯罪行為。

まあ、無差別テロの場合も政治目的のためとはいえ、やっていることは犯罪行為に違いはありませんが。

なぜ無関係な人を狙うのか・・・

彼ら少数派の意見は民主主義の中では切り捨てられるということは前編で言いました。

なので彼らの主張がメディアに注目される必要があった
かつてハイジャックが流行ったのもメディアが大きく取り上げてくれるからです。
それで問題を解決できるとは思ってないでしょうが、少なくとも自分たちの存在や主張を世界に知らしめることが出来る。国際的な注目を浴びることに意味があったわけです。


前編では「暴力的な民主主義によって切り捨てられた少数派からテロが誕生した」と言いました。

過激派(テロ組織)に対し武力行使で鎮圧すればするほど報復テロの連鎖を生むだけだという考え方をよく耳にします。

ではテロ組織と話し合いすれば問題は解決できるのか?
というと、相手が過激派だとちょっと怪しい。

過激派(テロ組織)は平和なんて望んでいないんじゃないかな?とさえ思えます。

というのは、稀に穏健派と民主主義国家が歩み寄り、共存できる方法を探る場合がありますよね。

そんな時、過激派は同胞であるはずの穏健派をも敵視しますからね。
せっかく穏健派が平和の実現を模索しているというのに・・・

イスラムの過激派組織を例にすれば、
彼らは親イスラムのためではなく、反西洋主義(反民主主義)と戦うことに存在意義があるんでしょうかね。

自分らの存在意義を守るには常に敵の存在が必要?
平和が実現してしまうと自分たちの存在意義がなくなるとでも?

そう考えると、彼らの理念は単なる逃げ口上に利用しているだけということになります。


やっていることは犯罪行為ですからね。過激派テロ組織との対話路線は解決策としてはかなりの難題なのではないでしょうか。

だからといって武力でテロを撲滅できると考えるのは間違い。
麻薬犯罪や強盗犯罪が無くならないのと同じです。

結局は国連および国家間が連携し、テロに対し毅然とした態度で臨むほかないんじゃないかな。

テロ行為はどう考えたって「犯罪」ですよ。

でもそれは我々民主主義・世俗主義での常識であって、
彼らにとっては正義なのだから理解し合うのはかなり難しい。

世の中多数決で少数派を切り捨てる民主主義がテロを生んだとして、
では民主主義の本来あるべき姿勢、つまり多数決より話し合いを重んじ、テロ組織とどこで妥協するか、折り合えるか探ろうにも、
それは両者とも民主主義でなければ成立しないというジレンマがそこにあるわけです。


(いつか「宗教vs世俗」の時代が来るのかな SHIBA)

民主主義とテロ(前編)

日本人がテロリストの犠牲になることで、にわかに国内でテロに対する関心が強くなってきたように思います、どうもSHIBAです。

ただ、これまで無関心であっただけにテロを理解するのは困難。

テロってイスラム過激主義者のこと?
なぜ民間人を狙うの?
テロリストって誰と戦ってるの?
そもそもテロの定義って何?

ありがちが疑問ですが、これらを理解するにはまず民主主義について考えてみると面白いことに気がつきます。


民主主義の社会では、
選挙は言うまでもなく「多数決」で決まります。

それが民主主義。

厳密には「民主主義=多数決」でありませんが、
普通はみんなそう思っています。

多数決こそ平等な決定法だと。

はたしてそうかな?



我々はある社会、組織、集団において、
何か物事を決める時に「多数決」を用いることがよくあります。

小学校の学級会長から政治家まで幅広く。

しかし「多数決」には問題があります。
それは少数派の意見が切り捨てられること。

政治家にとって有権者はマーケット。
選挙で勝つためにはより多くの支持者を得なければなりません。
貧困者のような社会的弱者なんて社会からみれば少数派ですし、
政治家にとっても強力なサポートをしてくれる存在でもありません。
どうしても社会的弱者に対する政策に力が入らないわけです。

同等の理由で、
障害者や介護者、少数民族などにも不利な世の中です。

また近年の衆院総選挙では「シルバー民主主義」などと呼ばれてもいます。
「シルバー民主主義」とは、高齢者世代の割合が多くなると、高齢者を優遇した政策を打ち出さなければならなくなって、若者に不利になりがちだ、という意味。

ただでさえ20代の人口は一番少ないのに、投票率も一番低かったくらいですから。
そりゃ若者に対する政策に力が入らないのも分かりますわな。

とは言っても、昔の若者も投票率が低かったと言われていますけどね。

団塊世代が20代の頃の有権者数おそよ2000万人。
ということで、その時の高齢者の3倍いた。
ところが、去年の衆院選での20代は高齢者の半分以下。
しかも投票率は高齢者の半分。

これだけ環境が変化しているので単純には比較できません。
それに、高齢者を優遇した政策は、別に今に始まったことではありません。
高齢者に対する厚い社会保障は昔からあったことです。

だからね。「シルバー民主主義」という言葉には誤解もきっとあるんでしょうけど。

ただね。
そんな風に言われるのも、選挙が「多数決」によって決まる構造ゆえの現象だと思うんですよ。


このように、「多数決」というものが不完全であるにもかかわらず、
「多数決」こそが一番公正な決定法だ、と疑うことがない人は多いでしょう。


おそらくその原因は教育でしょうね。

教育といっても小学校でのこと。

我々は何気に小学生のうちから、民主主義を学んでいるんですよ。

例えば学級会長。

クラスではまず先生が
「誰か立候補する奴はいないか?」
と質問します。

普通は面倒くさがって誰も挙手しません。

ありがちなのは、そのうち誰かがふざけて
「○○君がいいと思いまーす」
と気の弱い子(又はいじめられっ子)を推薦。

「他に誰かいないか?」と先生。
誰も何も言わないので
「じゃあ多数決を取るぞ~。
 ○○君で賛成の人は手を挙げて」

こんな感じで、なかば強制的に決定してしまうこと。みなさん経験ありませんでした?

時に多数決は暴力的な性質を持つのです。
冷静に考えれば、多数決が最善の方法だと言い切れないことが分かるでしょう。

大事なのは「本当にそれで良いのか?」という意見交換、話し合いなんですが。
子どもってそこまで思慮深くない。
多数決で決まったことは絶対だ、多数決こそ正義だと思っていたはずです。

人を決める時ばかりではありません。
遠足でどこへ行きたいかをクラス全体で決める時も多数決ですよね。

多数決の結果「川」が「山」より多数だったとします。
この場合、川に行きたい人の方が多いわけだから、通常は川で決定します。
しかし本当は、ここでも意見交換・話し合いが十分なされたかが大事です。
クラスの中に山について詳しい者がいて、今は季節がらいろんな花が楽しめるし山頂からの眺めも素晴らしいと主張したらどうなるだろうか。
あるいは、川は先日の大雨のせいで濁った水が増水していて、川で遊べないどころか危険性もあるとなったら・・・
多数派と少数派が逆転することもあり得ますよね。

もちろんそれでも多数派と少数派のどちらが正しいかなんて言い切れないのですが。
少なくとも少数派の意見も汲んだうえでの合議なら、結果的に誤った選択だったとしても仕方のないことだと納得もできるでしょう。


ぶっちゃけ、民主主義ってのは妥協することなんですよ。
少数意見も尊重し、賛成派と反対派がどこで妥協するか、折り合うか

派遣村の元村長、湯浅誠さんは「民主主義とは面倒くさくて疲れるものだ」と言います。
意見を調整するのは大変だが、民主主義を守りたいなら、その面倒くささを引き受けなければならないと説いています。


http://tinyurl.com/kj46o9u
amazon 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』湯浅誠著

確かにね。
話し合うことは大事だということは分かっているんですが。
それでは話がまとまらず、なかなか進まないのも事実。
そんな役、誰も引き受けたくないですよね。

そこで誰かスパッと決断して行動してくれる人の出現を期待してしまうもの。
政治が停滞していたり不信感が強い時って、そういう傾向にあるみたいです。

しかし「そんな考え方は危険だ」と湯浅さんは言っているわけです。
独裁者を生み出してしまう恐れがありますからね。
ナチスの台頭は民主主義がもたらした欠点でもありました。


さて、そんなわけで
民主主義とは面倒で疲れるものなんですねぇ。


話し合いより多数決。

これを怠り、暴力的な民主主義によって切り捨てられた少数派の意見

ここからテロが誕生します。


『民主主義とテロ(後編)』 へ続く


(民主主義って面倒くさい SHIBA)