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2015年04月05日

【哲学?】 夢は常に過去形で語られる

「よく夢を見ますか?」という質問は、とても違和感を感じる表現です。

夢というのは、目が覚めた後にその光景が思い起こされて初めて「夢を見た」ことになるからです。

夢を見たとしても、思い起こされることが無ければ、夢は見なかったとされる。

だから「よく夢を見ますか?」の問いに「いいえ」と答えられる人なんて有り得ない。

本当は毎日夢を見ているかもしれない。思い起こすことが無いだけで・・・

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夢とは面白いもので、夢を見ている時にはまだ「夢」は存在していなくて、
夢から醒めた後にそれを思い起こされて初めて「夢」が存在していたことになる。

夢は常に過去形で語られなければならない。



バブル経済とよく似ていますよね。
バブルの真っただ中の時は誰もそれがバブルだとは思わない。
バブルが弾けて初めて「あれはバブルだったのだ」と気付く。
幻想だったのだと・・・


夢はよく「将来の夢」などと例えられます。

しかし先程のように夢は常に過去のものでなければならず、「将来の夢」などと表現するのは不適切だと言えます。

将来実現させたいことを「夢」などと表現するのは間違っています。

何度も言いますが、それが夢であるのは、常に過去形でなければなりません。

「わたしには夢がある」という文章は有り得ないことになる。

正しくは「わたしには目標がある」です。

そしてその目標が達成されなかった時、「あれは夢だった」となる。


金八先生風にいえば人の夢と書いて「儚い」になります。
どんな夢でも、いつかは醒めるもの。
醒めなかったらそれは夢ではなく現実なのです。

逆に「目標」というものは、自分から諦めない限りは必ず達成できるものになります。
達成されないものは夢ですから。


「夢は大きい方が良い」とかいって

「わたしの夢は全国大会で優勝すること」などと表現したいならば、

「わたしの目標は全国大会で優勝すること」と言うべきです。


だいたい「夢」は良いものであるという前提に立って例えられていることも可笑しい。
夢は良いものばかりとは限りませんからね。

試合中に大けがをして優勝どころか今季絶望になることだって有り得るわけで、
その場合は後日に「あれは悪夢だった」と語られることになるでしょう。


いずれにしても、夢を見て生きるってどうなんでしょう。

夢とはいつかは終わる読み切りのドラマでしかなく、
現実は死ぬまで続く壮大な大河ドラマ・連続ドラマなんですからね。


いや。

だからこそ、夢を語れる人って素敵なのかもしれない・・・


(人ってロマンチストだねぇ SHIBA)

葉桜の季節に思うこと

僕の近所でも桜が綺麗に咲いています、どうもSHIBAです。

日本人にとって桜は特別な存在です。

桜は満開時だけでなく、蝶の乱舞のように散りゆく様もまた人々の心を掴みます。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 」(古今和歌集)

こんなにのどかな春の日のなかで、なぜ 桜の花はあわただしく散っていくのだろう・・・

「しづ心」とは静かな心のこと。しず心ないとは落ち着かない様子のことを表します。


「花は桜木、人は武士」といわれるほど、桜の散り際は美しいものです。

はかなくもその瞬く間の美しさ、清く潔い姿こそ、日本人の死生観の象徴になっていることが窺えます。


良寛の辞世の句「散る桜 残る桜も 散る桜」も限られた命を詠んだ句として愛されてきました(本人はそんなつもりで詠んだ句ではないが)

そして桜に対する人生の精神的投影は散り終えると同時に終幕します。

余韻はあれど、桜木への関心はそこで終わるのが普通ですよね。


しかし僕には最近、桜へ心的傾向が少し変わってきました。

葉桜もまた一興だなぁと。

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葉桜といっても桜花と葉が五分五分の割合ぐらい。花びらが散る寂しさの中に、若葉が芽吹き始めて新緑が混ざっている状態がいい。

例えるなら「卒業の寂しさと新しい門出への期待」 「定年を迎えてこれから第二の人生を歩む再出発」 「単なる華やかなアイドルから大人の女優へと成長する決意」

ポッカリと空いた穴を埋める以上の希望と力強さに高揚する。

同じ「しづ心なく」でも意味合いが全然違って感じられませんか?


桜が散るのは、冬枯れを迎える紅葉の場合とは違うのです。


でもこんな風に感じてしまうのは、歳をとったからなのかなぁ・・・


(失恋もまた葉桜 SHIBA)