僕の近所でも桜が綺麗に咲いています、どうもSHIBAです。
日本人にとって桜は特別な存在です。
桜は満開時だけでなく、蝶の乱舞のように散りゆく様もまた人々の心を掴みます。
「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 」(古今和歌集)
こんなにのどかな春の日のなかで、なぜ 桜の花はあわただしく散っていくのだろう・・・
「しづ心」とは静かな心のこと。しず心ないとは落ち着かない様子のことを表します。
「花は桜木、人は武士」といわれるほど、桜の散り際は美しいものです。
はかなくもその瞬く間の美しさ、清く潔い姿こそ、日本人の死生観の象徴になっていることが窺えます。
良寛の辞世の句「散る桜 残る桜も 散る桜」も限られた命を詠んだ句として愛されてきました(本人はそんなつもりで詠んだ句ではないが)
そして桜に対する人生の精神的投影は散り終えると同時に終幕します。
余韻はあれど、桜木への関心はそこで終わるのが普通ですよね。
しかし僕には最近、桜へ心的傾向が少し変わってきました。
葉桜もまた一興だなぁと。
葉桜といっても桜花と葉が五分五分の割合ぐらい。花びらが散る寂しさの中に、若葉が芽吹き始めて新緑が混ざっている状態がいい。
例えるなら「卒業の寂しさと新しい門出への期待」 「定年を迎えてこれから第二の人生を歩む再出発」 「単なる華やかなアイドルから大人の女優へと成長する決意」
ポッカリと空いた穴を埋める以上の希望と力強さに高揚する。
同じ「しづ心なく」でも意味合いが全然違って感じられませんか?
桜が散るのは、冬枯れを迎える紅葉の場合とは違うのです。
でもこんな風に感じてしまうのは、歳をとったからなのかなぁ・・・
(失恋もまた葉桜 SHIBA)